ひとり旅にアート心も入れて by 塩見有紀子

第33回 多くの住民が犠牲になった戦争マラリアを伝える「八重山平和祈念館」(沖縄県・石垣島)

沖縄・八重山諸島の「戦争マラリア」、聞いたことありますか? 実は私、サステナ島旅で石垣島を訪れるまで、知りませんでした。

避難小屋の様子

1945年の沖縄戦の中、八重山地域の全人口31,681名の内、小さな子どもをも含む3,647名が亡くなりました。亡くなった理由は戦闘ではなく、熱病のマラリア。マラリアは蚊が媒介する感染症で、寒気や震えを伴い高熱などが起こり、重症化すると命を落とすこともあります。石垣町では当時の人口13,531名の内、マラリアに罹患したのは5,130名、亡くなったのは1,388名。実に人口の約27%が犠牲に。八重山では、空襲や艦砲射撃はありましたが、沖縄本島のような地上戦がなかったのにも関わらず、これほど多くの住民が亡くなったのです。

「戦時中の軍命によるマラリア有病地への退去(強制避難)」のパネル。
八重山地域全人口31,681名(2022年に修正)、罹患者数16,884名・死亡者数3,647名

何故これほど多くの方が亡くなったのか。それは、住民が、マラリアがない無病地帯から、マラリアが蔓延する有病地帯へ移住したことが原因でした。例えば、石垣島では、マラリア無病地帯であった島南部などから当時は有病地帯であった島の中央部や北部へ、竹富島や波照間島から、かつては有病地帯の西表島へ移りました。そして、これらは有病地帯と知った上での日本軍の命令による強制的な移住だったのです。治療薬もなく栄養状態も悪い中でマラリアの大量発生が起き、多くの方が犠牲になったのです。これが「戦争マラリア」です。

アジア・太平洋戦争に起因する沖縄戦の様子(上)避難小屋の模型(右下)

石垣港よりバスで約10分の場所にある「八重山平和祈念館」は、戦争マラリアについて学べる施設です。館内には、写真で伝える沖縄戦や戦争マラリア関連の資料、空から見えないように立木や灌木で作られた避難小屋の模型、強制移住が軍命だったことを示す手記など、様々な資料が展示されています。

強制移住の命令が出されたのには主に3つの要因があると言われているそうです。ひとつは、八重山への米軍上陸を予想し島民が戦闘の妨げにならないようにするため。そして島民が捕虜になり軍の情報が米軍に漏れないようにするため。そしてもうひとつが、軍の食糧確保のためだったそうです。当時の日本軍は、食糧は現地調達が原則。そこで、島の住民が育てていた家畜を軍のために強制収用するために追い出されたともいわれます。

戦後は、米軍政府による治療薬の給付、マラリア根絶事業に貢献したチャールズ・M・ウイラー博士による「ウイラープラン」などの地道な努力の結果、1962年に八重山諸島でマラリア撲滅宣言が行われました。1945年の爆発的な流行から、実に17年もの年月がかかったのです。

マラリア根絶事業使われた器具(左上)

マラリア患者数の推移。1962年に撲滅

美しい景色を目的に多くの観光客が訪れる八重山諸島には、一方でこのような過去があることを決して忘れてはいけません。八重山平和祈念館を初めて訪れて、あらためてそう感じました。

八重山平和祈念館
https://www.pref.okinawa.jp/yaeyama-peace-museum/
※展示室は撮影禁止です。許可を得て撮影しています

◇おひとり様ポイント◇
沖縄戦関連の書籍や、子どもの目線から戦争マラリアを描いたアニメ映像なども見られます。じっくりご覧ください。

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