小樽を代表する観光スポットの小樽運河。御影石を敷き詰めた散策路には、夕刻になると63基のガス灯に灯がともり、なんともロマンティックな雰囲気に。小樽観光の定番スポットである小樽運河、小樽市民の熱い想いから保存されたものなのです。
明治15(1882)年、内陸で算出される石炭輸送のために幌内と札幌間の鉄道が開通し、2年前に開通していた札幌―小樽手宮と合わせ全線が開通します。鉄道と港の大動脈により、小樽港は石炭積み出し港として、またロシアをはじめとする海外貿易港として発展します。
そのころ、港では大型船を沖に泊めて、はしけ(平底の船)を使って荷揚げをしていました。しかしそれでは効率が悪く、直接、倉庫の近くまで行かれる水路・小樽運河を整備することになったのです。
手宮線の線路跡は散策路に
長さ約1300m、幅40mの小樽運河が完成したのは小樽全盛期の大正12年(1923)。街には商社や大手銀行の支店が進出し、「北のウォール街」と呼ばれるようになります。今もその面影が随所に残り、重要文化財の「日本銀行旧小樽支店」は金融資料館として公開されています。設計は東京駅を手掛けた辰野金吾とその弟子。堅固な中にもモダンな趣があり、北海道らしいアイヌの主神シマフクロウの塑像が随所にみられます。
日本銀行旧小樽支店
繫栄を極めた小樽ですが、石炭から石油へのエネルギー転換や、モータリゼーションの進展による交通渋滞の緩和などの理由で、倉庫の解体と小樽運河の埋め立てによる道路建設の都市計画がもち立ち上がります。これに対して市民の間には街の象徴である運河や倉庫を守ろうとする運動がおこります。10年余りに及ぶ大論争は、「小樽運河戦争」として全国的な市民運動として有名になりました。また、その盛り上がりの中、小樽市では「小樽市歴史的建造物及び景観地区保全条例」が制定され、多くの建造物が指定され歴史的価値が与えられました。
冬は「小樽雪あかりの路」の会場に
昭和61(1986)年、都市計画は変更され、運河の一部を埋立て、その幅の半分が道路となり、散策路や街園が整備された現在の姿に生まれ変わりました。北部の北運河は当初のままの幅を留め、係留する船や倉庫などが港町の面影を宿しています。
北運河 小樽運河クルーズで北運河へ
小樽運河の散策路を歩きながら、この景観を護った市民運動があったことを、少しでも頭の片隅に置いていただけましたら嬉しいです。
写真協力:小樽市観光協会