新たな一歩を踏み出す軍艦島
長崎の沖合いに浮かぶ端島。通称、軍艦島と呼ばれるこの島は、海底炭鉱の島として、かつて日本の近代化を支えた島でした。1974年の閉山後、無人島となりましたが、今年4月20日から上陸が許可。さっそく出かけてみました。
2009年1月5日に世界遺産暫定リストに掲載された「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成資産のひとつとして、35年の眠りから覚めた島・端島。その島影が軍艦「土佐」に似ていることから軍艦島と名付けられたといいます。南北約480メートル、東西約160メートル。南北の長さはちょうど新幹線のホームの長さと同じくらいです。もともとは草木のない水成岩の瀬にすぎなかった小さな島で、1890年から三菱の本格的な海底炭坑として操業が開始されました。以来、6回にわたり埋め立てが行なわれ護岸堤防が拡張され、現在の大きさになりました。
出炭量が増加するにつれ、人口も増え、"ヤマの暮らし"が営まれていったのです。最盛期には約5300人が住み、日本一の人口密度であったといいます。1916年には日本初の鉄筋コンクリート造7階建ての高層集合住宅が建設されました。そして学校、病院、郵便局、商店、神社・寺院、映画館やホール、パチンコなどの娯楽施設など、生活に必要な施設が整えられました。さらに緑のない島に潤いの空間をつくるために、アパートに屋上菜園もつくられたといいます。電気は高島からの海底ケーブルで送電され、水は当初は給水船で運ばれ、1957年に日本初の海底水道が敷設されました。島にない施設は火葬場と墓地だけ。これは軍艦島の北にある中ノ島に設置されました。ここはダイナミックな先端海上都市だったのです。
今回、私が参加したのは近 畿日本ツーリストによる「長崎発着の日帰り軍艦島上陸ツアー」です。サブタイトルに近代化産業遺産群スタディーツアーとあるように、軍艦島のほかに高島にあるグラバー別邸跡、北渓井坑跡(日本最初の洋式炭坑の坑口)などの見学が含まれているものです。ちなみに「九州・山口の近代化産業遺産群」は6県11市が共同提案した22の資産からなり、長崎では旧グラバー住宅、小菅修船場跡(通称そろばんドック)、そして高島の北渓井坑跡、軍艦島の4件となっています。
近代化遺産とは幕末から戦前にかけて建設されたもので、日本の近代化に貢献した産業・交通・土木に関わる建造物など。1996年に文化庁が定義したものなのですが、類似の取り組みとして2007年から経済産業省が近代化産業遺産群として認定していて、混在しています。いずれにしても近代化遺産とは、私たちの親や祖父母、曽祖父母くらいのちょっと前の歴史の痕跡です。現在の私たちが享受する生活基盤が築かれた歴史であり、明治・大正・昭和の日本の近代化のなかで先人が夢見たロマンの足跡といえます。貴重な遺産なのですが、これまで見直されることがなかった部分といってもいいでしょう。
↑巨大な模型 ↑説明する坂本さん
近ツリのツアー以外でも軍艦島に上陸することはできます。地元のやまさ海運による上陸クルーズなどです。しかしこの近ツリのツアーの最大のポイントは、NPO法人「軍艦島を世界遺産にする会」の坂本道徳理事長(ほかの軍艦島コンシェルジュの場合もあり)の案内があるということです。坂本さんは小学校6年の時に筑豊からご家族で軍艦島に移住し、20歳で閉山をむかえるまで、軍艦島で暮らしていた方。当時の生活の様子を現在の島の姿と重ねて、お話をうかがうことができるのです。
高島で、軍艦島の巨大模型を見学し概要の説明を受けた後、出航です。高島も軍艦島同様に炭坑の島でした。閉山後は関連施設や社宅などは取り壊され、現在はトマトと観光の島となっています。港を出た船が軍艦島に近づいていきます。途中には岩礁のような横島がありました。ここも炭坑の島だったところですが1960年代後半から地盤沈下が進み、現在は島の姿も留めていません。今日は天候にも恵まれ波も穏やか。波間に消える島に寂寥感がつのります。軍艦島のドルフィン桟橋に接岸です。軍艦島には港がなく、海が荒れれば上陸は不可能で、これまでの上陸率は80パーセントとか。こればかりは運を天に任せるしかありません。
↑校舎と支柱 レンガの事務所と竪坑口桟橋↑
見学箇所は南西に設けられた広場と通路からです。こちら側は平地があり比較的海が静かなことから造られた鉱山施設側。会社事務所の遺構などがあり、精選された石炭を運ぶベルトコンベアーの支柱が残っています。この支柱周辺すべてが貯炭場で、操業時には山のように炭が積まれていたため、坂本さんもこの支柱を見たことがなかったといいます。まるで古代の列柱遺跡のように並ぶさまは精悍な趣があります。支柱の後方には傾いた端島小中学校の校舎、その手前には朽ち果てた体育館のむき出しの鉄筋。そして主力坑であった第二竪坑口桟橋跡と煉瓦造りの総合事務所の遺構が残ります。第二竪坑口桟橋は命がけの仕事をする男たちの出入り口でした。事務所とこの桟橋を繋ぐ階段を上がりケージと呼ばれるエレベーターで600メートル下の現場へ、作業を終え階段を下りれば地上へ。昇降階段は緊張と安堵が交差し、死と隣り合わせで生きるヤマの男たちの無言の足音が響いた場所でした。さらに鉱員社宅であった日本初の7階建ての鉄筋コンクリート高層アパート、島の頂上に立つ幹部職員用の社宅、海水を引き入れたプールなどを目にすることができます。
↑日本初のコンクリート造高層住宅
坂本さんが家族5人と暮らしていたのは島の北側に立つ島内最大の9階建ての社宅。317世帯が住み、間取りは六畳と四畳半、トイレと風呂は共同。もちろんエレベーターはないので、島内の高層住居は渡り廊下と階段でつながれ、島の端から端まで地面に降りなくても移動できたといいます。部屋には今も家財道具が残っているとのこと。なかでも電化製品は移転地で買えばいいと思ったのか、かなりの数の洗濯機や冷蔵庫などがそのままなのです。「ただいま」とドアを開ければ当時の生活のままが残されているのです。見学エリアがもっと広がれば、このような暮らしの一端も見ることができるのでしょう。
坂本さんは話します。堆積したボタの浜で遊んだ思い出、台風で荷船が来ない時だけ食べることができた缶詰の味、未成年だったのでパチンコとスナックには足を踏み入れたことがなかったこと、いつも賑やかだった端島銀座、そして閉山で友だちが次々と去っていく辛さ......ここには確かに日本の近代化を支え、それに従事した多くの人々の記憶があるのです。今、島は鉄とコンクリートの残骸を緑が覆うように、自然に還りつつあります。その姿は、環境とは、都市とは、などさまざまなことを教えてくれるようです。
私はこれまで鉱山施設としては秋田県の小坂鉱山、愛媛県の別子銅山などを訪ねました。小坂では今も稼動する芝居小屋の庚楽館、明治の建築美が蘇った小坂鉱山事務所を中心に繁栄の歴史を物語る町興しの施設となっています。別子銅山は観光施設・マイントピア別子とともに産業遺産ゾーンとして見ごたえのある遺構がありました。
文化遺産は活用しなければ意味がないと考えてきましたが、軍艦島は例外のような気がします。存在そのものに大きな意義があるのです。この島の姿が10年後、20年後にどのようになるのかを見続けたいという気持ちになりました。過去を知り、今を感じ、未来を見届ける。軍艦島は決して廃墟ではありません。世界遺産にふさわしい誇るべき貴重な宝です。このような近代化遺産が世界遺産になることを切に願います。
NPO法人 軍艦島を世界遺産にする会→コチラ
近 畿日本ツーリスト軍艦島上陸ツアー → コチラ
軍艦島以外の長崎の旅は、また後日Red関屋のページでアップしたいと思います。
(取材・執筆 関屋 淳子)