明治23年(1890年)4月に夷川船泊の中の島で、琵琶湖疏水の完成式典が行われました。式典では101発の花火が打ち上げられ、祇園祭の山鉾が並び、大文字の送り火が点灯されたそうです。祇園祭の山鉾は、ばらばらの材料を縄だけで組み上げる大変な作業です。大文字も麓から山上まで大量の薪を運び上げなければならないという重労働です。なんと明治天皇がご臨席。どれほどの国家規模の大事業だったかがわかります。
夷川船泊の発電所と蹴上の発電所周辺を、工業団地化する計画だったのですが、うまくいかず頓挫しました。こんな文化ゾーンを!とお思いでしょうが、今でこそ重要文化的景観に指定されていますが、当時は何もない野原でした。工業団地の代わりにできたのが、南禅寺界隈別荘庭園群です。
西に向かって見る無鄰菴の庭
特徴は疏水の水を取り入れた回遊式庭園があることです。そのほとんどを手掛けたのが、7代目・8代目小川治兵衛です。疏水利用の回遊式庭園の第一号は、南禅寺から少し離れていますが、七宝家として有名な並河靖之邸(現・並河靖之七宝記念館)です。疏水からの分線のようになった白川から水を取り入れ、庭はこじんまりしていますが、池にせり出した建物などとても趣があります(記念館は2021年4月1日まで休館中)
三条通を越えて南下する白川
並河靖之七宝記念館
そして庭園群を一躍有名にしたのが無鄰菴(2021年1月末現在、入場は事前予約制)です。無鄰菴は、奇兵隊出身で第3代・第9代内閣総理大臣の山縣有朋の別荘で、最初の無鄰菴は郷里・下関に、2番目は京都木屋町、そして3番目がここです。山縣は、琵琶湖疏水起工の許可を北垣知事に与えるなど疏水事業を推進し、完成式典にも出席。無鄰菴に疏水の水を流しているのは、事業を推進してくれた山縣への京都市からの恩義ではないかとされています。
庭は山縣が思い描いた理想を、7代目小川治兵衛が見事に形にしました。敷地内の洋館2階では日露戦争開戦について話し合われた有名な無鄰菴会議が行われました。メンバーは、伊藤博文、小村壽太郎、桂太郎、山縣有朋。結論は出なかったにせよ、4人で日本の運命を左右する会議って凄い時代ですね、明治は!
屋敷前から東に向かって見る無鄰菴の庭
無鄰菴のすぐ隣は瓢亭で、当地にて400年の歴史があり、無鄰菴から流れてきた疏水の水を庭園に利用しています。
文献を見つけられませんでしたので私の想像ですが、無鄰菴が出世作となり、それまでいち植木屋だった小川治兵衛の才能を見出したデベロッパーが、タッグを組んで別荘庭園を日本の資産家に売り込んだんじゃないかと思っています。