京都のど真ん中に100ヘクタールもの広さの公園があります。それはご存じ京都御苑です。その中には京都御所、京都大宮・仙洞御所そして平成17年に出来た京都迎賓館などがあります。明治2年まで天皇は京都御所におられましたが、794年の平安建都からずっとここが内裏だったわけではありません。
大内裏は千本通丸太町北にありましたが、何度かの火災でついに再建されませんでした。その後の天皇はどこに居られたかと申しますと、摂家や皇后の実家、外戚の邸宅を転々としていました。その場所を平安宮内裏に対して里内裏と称しています。現在の京都御所のもとは、里内裏の土御門東洞院殿です。
そこで北朝初代天皇の光厳天皇が鎌倉時代最末期の1331年に即位します。その後明治2年に明治天皇が「ちょっと東京へ行ってくる」と言われ、京都を離れられるまでの約530年間里内裏であり続けました。
京都御所の周辺は約200軒の公家屋敷が並ぶ公家町でしたが、公家たちは明治天皇に付き従って東京に行ったので、一気に荒廃しました。これに心を痛められた明治天皇が整備のご沙汰を下され、京都府が屋敷を撤去、現在の京都御苑が公園として整備されました。京都人は京都御苑のことを御所と呼びます。
御所の中で残された数少ない建物の一つ拾翠亭(しゅうすいてい)を紹介します。
高倉橋の北側は京都御所建礼門へまっすぐ伸びている。
時代祭は建礼門前をスタートして南下する。
場所は南西角に近く、堺町御門を入ってすぐ左手です。塀と樹木に隠れて分かりにくいですが、南北に入口があり、そこが橋のたもとになっていて入ると別世界の優美な池が広がっています。
橋は池を東西に分けるように、ど真ん中に架かっています。橋の上から西を見ると池畔に二層からなる数寄屋風書院造がたたずんでいます。これが九條家遺構の拾翠亭です。
九條池を分断する高倉橋。明治15年竣工と新しく、
拾翠亭とは関係なく、別の目的で架けられたという。
九條家は藤原鎌足を遠祖とする五摂家の一つで、摂政関白の要職に就いた人を多く輩出した名家です。拾翠亭は、今から約200年前の江戸後期に建てられた九條家の別邸で、茶会や歌会等に使われた、いわばゲストハウスでした。名前の由来は、野辺に出て緑の草花を拾い集める貴族の楽しみからきたとも、翠にはカワセミという意味があり、この池に多くのカワセミが飛来していたから拾翠と名付けたともいわれています。
九條池の西側に建つ拾翠亭を庭園から見る。一枚岩の石橋が凄い!
池は東西90m、南北60mの広さで、現在は九條家を偲んで九條池と呼ばれていますが、その形から勾玉池とも呼ばれていました。江戸後期の築造と考えられていて、南東隅に当時は鴨川から引水した滝組が設けられていましたが、現在樹木が生い茂り確認できません。
橋は明治15年に竣工した高倉橋と呼ばれる反橋で、丸太町通から京都御所南面正門の建礼門までの線上にあり、国賓や天皇を通す役割があったようです。池の北側西寄りに九條家の鎮守の厳島神社があります。兵庫の築島にあったものを移築したとの伝えがあり、唐破風形の珍しい石鳥居は平清盛建立です。
こじんまりした厳島神社。平清盛建立の変わった石鳥居が社殿の目の前に建つ。
中に入ってみると、広間と控えの間そしてにじり口がある茶室の小間の3室ですが、広間にも炉が切ってあり茶室です。公家がこの2室を行き来して茶事を楽しんでいたようです。
広間には池に面して解放された広縁があり、夏は百日紅の花越に九條池と高倉橋を望むとても風流な眺めです。二階はゆったりとした座敷が1室です。外回りに縁高欄がめぐらされていて、一階の景色に加えて厳島神社や借景として大文字山が取り入れられています。
一階広間から池を望む。広縁の広さが貴族の遊び心を感じさせる。
ここに来ると必ず一羽の大きな鷺が橋の欄干にとまっています。とても良いアクセントになっていて有難いです。拾翠亭に入るのは有料、それ以外は無料です。
参観:年末年始を除く毎週木・金・土曜日及び葵祭、時代祭り
9:30~15:30(受付は15:15まで)
高校生以上300円
利用:全日(日祝15000円・平日12000円)
半日(日祝7500円・平日6000円)
申し込み問い合わせ:一般財団法人 国民公園協会京都御苑
〒602-0881京都市上京区京都御苑3 075-211-6364