京都には深い井戸が幾つもある by 小林禎弘

第45回 広沢池を巡る、嵯峨野細道さんぽ(京都市)

広沢池を散策します。国内でよく知られている広沢池ですが、日本三沢(さんたく)の池のひとつと言われています。あと二つは、奈良の猿沢の池、大分県宇佐市宇佐神宮の初沢の池です。しかしまあ沢が共通点なだけで、それがどうしたという感じですかね⁈

場所は、京都の北西にある仁和寺の前の道路、宇多野嵐山山田線(観光道路と呼ばれています)を西へ行き峠を越えると嵐山渡月橋までの平野、いわゆる嵯峨野に入ります。広沢池は嵯峨野の最も西に位置し、池の南を観光道路が通っています。

周囲約1.3kmで、南辺が長い台形の形をしています。広沢池の典型的な写真は、嵯峨富士と呼ばれている遍照寺山(朝原山)をドカンと真ん中に入れ、池の面積は半分より少なめで右の草原にある茅葺の家をアクセントにポツンと入れるというものです。最近はその茅葺の家が緑に埋まりつつあり、アクセントとしては弱くなってきている印象です。

平安時代から貴族の観月の名所として有名です。「名月や池をめぐりて夜もすがら」は松尾芭蕉の有名な句ですが、広沢池のことだと言われていて、池畔に句碑が立っています。芭蕉以外にも時代を超えた有名人が多くの歌を詠んでいます。しかし有名な広沢池が、人造の溜池だということをご存じの方は少ないと思います。

成り立ちの言い伝えは2つあり、1つは平安時代中期の989年(永祚元年)に宇多天皇の孫にあたる寛朝僧正が、朝原山の麓に遍照寺を建立したときに本堂南に庭池として掘削造営したという説。もう1つは嵯峨野から嵐山一帯を開墾した渡来人の秦氏が灌漑用溜池として造ったという説です。私的には後者の方がしっくりきます。遍照寺はその後廃れ、江戸時代にようやく復興し現在は池の南300m下がったところに移転しています。

南から遍照寺山を望む

池の北側から南へ移転した遍照寺の本堂

池の南西から散策します。角に兒神社(ちごじんじゃ)があります。由来は遍照寺を建てた寛朝がなくなったときに、悲しみのあまり後を追って池に身を投げた兒を哀れんだ近住の人が創建したのが始まりです。池畔で座禅を組んでいた寛朝の傍らでいつも兒が座っていた石椅子が境内にあります。

 兒神社境内にある祭神の 兒が座っていたという石椅子

北へ向かうと葦が生い茂り池畔には近づけないのですが、しばらく行くと池に半島のように突き出た明治時代再建の中島(観音島)があります。直径3mくらいの人口島ですが、橋が架けられ真ん中に弁財天の祠があります。ここから葦原の眺めや野鳥をうまく見ることができます。

人工島「観音島」、弁財天の祠がある

この先の池の北側には道がありませんのでUターンします。西を見ると所々こんもりした古墳がある、嵯峨野ののどかな風景が広がっています。遠く愛宕山が望めます。南堤沿いを東に行くと桜並木が続いています。たまにカエデが混じっていて春秋の写真撮影ポイントです。

池の西に広がる嵯峨野の風景、遠くのピークは愛宕山、
手前右の丘は「嵯峨七ツ塚古墳七号古墳」

南東角から水辺に降りられます。夕暮れ時には犬の散歩をする人やジョギングする人、野鳥を撮影する人などの憩いの場になっています。遊歩道を奥まで行くと池に映った山並みがシルエットになり幻想的な写真が撮れます。

池東側の遊歩道

東側池端の遊歩道から西を望んだ夕景

8月16日の五山の送り火の一つ「鳥居型」のビューポイントで、同時に灯籠流しが行われ池一面に灯籠が浮かびます。ちなみに申し込みは8月15日までに遍照寺へ1000円です。池の周辺は造園業者の本場で、全国から職人が修業に来ています。樹木の畑ともいうべき業者の森を眺めながら歩くのもガイドブックにない楽しみ方で、桜守で有名な佐野藤右衛門の敷地も池の向かいにあります。

また京都人にもあまり知られていませんが、広沢池は鯉やフナを養殖しており、12月になると漁獲するために池の水を全部抜く「鯉揚げ」という行事がおこなわれ、鯉などを買うこともできます。

Tag

このページをSHAREする

最新記事一覧へ