京都には深い井戸が幾つもある by 小林禎弘

第39回 鴨川に架かる最古の橋・優美なアーチ橋の七条大橋(京都市)

京都には全国的に有名な橋がありますが、今回は歴史があるにも関わらず、あまり注目されていない鴨川に架かる七条大橋の紹介です。

江戸時代には七条河原に中州を挟んで2本の橋が架かっていましたが、七条大橋という1本の木製橋が架かったのは、1883年(明治16年)で、京都の中では比較的最近です。さらに道路拡張で、1885年(明治28年)に架け替えられました。そして1908年(明治41年)から開始された京都市三大事業(第二琵琶湖疏水開削、上水道整備、道路改築及び市電敷設)で七条大橋は今の姿に生まれ変わります。

川下左岸から見る全景です。優雅なアーチが美しい。

当時の架け替えの理由は市電の車体の通行に耐える必要があったからです。丸太町橋と四条大橋も同趣旨で架け替えられました。旗振りをしたのが、西郷隆盛の長男で第2代京都市長・西郷菊次郎です。その後丸太町橋と四条大橋も架け替えられたので、鴨川に架かる橋の中では七条大橋が最古です。1911年(明治44年)着工、1913年(大正2年)開通、市電も開通しました。

橋上中央から川上。見えているのは正面橋で、
昭和10年の京都大水害の時橋の残骸を受け止めたため七条大橋は無傷。
この下に暗渠化した疏水が流れ、地下に京阪電車が走るため橋が短くなった。

本体の設計は東京帝国大学教授で、鉄筋コンクリートのパイオニアと呼ばれる柴田畦作(しばたけいさく)、意匠設計は東京帝国大学建築学科出身の建築家の森山松之助らが担当しました。黎明期の鉄筋コンクリート橋として、全国的に見ても群を抜いて巨大なアーチ橋です。側面に施された幾何学的文様はセセッション式と呼ばれる当時流行したデザインで、明治期の意匠を色濃く残しています。昔の四条大橋もよく似ています。それは新しもの好きな京都人気質でしょうけれど、現代の京都ならきっと許されないでしょう。

土手が低くなってきており、水流が少ないと簡単に川の中央まで行ける。アーチの下、橋をくぐる

右岸側、南北の親柱に嵌められた銘板。
戦時中の金属供出で高欄の鋳鉄製手摺や、親橋の上に据え付けられていた照明灯を失う

戦時中の金属供出で高欄の手摺と照明塔が失われましたが、疏水暗渠化、京阪電車地下化に伴った改修工事で、近くにある三十三間堂の新春の行事「三十三間堂の通し矢」をイメージした矢車模様が高欄に取り付けられました。鴨川の橋のほぼすべてが流された1935年(昭和10年)の京都大水害でも、すぐ上流の正面橋が橋の残骸を受け止めて七条大橋は無傷でした。「登録有形文化財」と土木学会から「土木学会選奨土木遺産」に認定された110歳の姿が今もあります。

左岸の新しい親柱と高欄に配された、三十三間堂の通し矢をイメージした矢車模様

2019年に登録有形文化財に、2008年に土木学会選奨土木遺産に認定された記念銘板

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