京都には全国的に有名な橋がいくつもありますが、そのひとつ三条大橋の歴史的な情報をお知らせします。嵐山の渡月橋のように、渡来人が平安以前いつ架けたのかわからない橋の中で、三条大橋は1423年に室町幕府が朝廷の臣下に造営料を課した記録があるので、その頃架けられたしょぼい橋だったようです。
現在の形に近い立派な橋に架け替えたのは豊臣秀吉です。1590年に豊臣政権五奉行の一人増田長盛に工事を担当させます。橋脚には石柱を63本も使い、日本の石柱橋としては最初のものだろうといわれた権力の象徴の強固な長大橋です。その石柱は今でも現役で使われています。そして秀吉が推し進めた都市インフラ整備に大きな役割を果たします。工事の経緯は、擬宝珠に刻まれており、今ある擬宝珠は秀吉が造らせたその物なのです!
三条大橋全景と南西にある早咲きの河津桜
中柱と擬宝珠です。擬宝珠高欄は、寺社建築の階段や縁側をモデルとしたもの。
擬宝珠は当時のままの物で、工事のいきさつと豊臣の文字が刻まれています。
江戸時代に入ると三条大橋は、江戸の日本橋を起点とした東海道・中山道の終点に位置付けられます。東海道中膝栗毛には弥次喜多が三条大橋そばの宿屋に泊まったということで、銅像も立ちます。三条大橋から五条橋まで鴨川の河原は物売りや見世物で賑わい、夏には裕福な商人が川の中に床几(しょうぎ)を出して客をもてなし、これが納涼床の始まりと言われています。また西から2つ目の南北の擬宝珠には、幕末の池田屋騒動の時につけられたとされる刀傷が残っていますし、明治時代には三条大橋の下に東西から高床を伸ばして芸舞妓を呼んで宴会している写真が残っています。
南西にある弥次喜多の銅像です。かなりでかいサギですが、鴨川にはたくさん生息しています。
池田屋騒動での刀傷と言われています。
みんながこするので剥げています。下は昭和製の擬宝珠
三条大橋は二百数十年間で20回を超える洪水被害を受けて、全部ではありませんが流されています。大正元年に鋼とコンクリートで架け替えられたのに、昭和10年の昭和大水害で一部が流され擬宝珠も流されます。昭和の擬宝珠にはその模様が書かれています。その後鴨川は深く掘り込まれ、現在の風景になっています。
省かれて使わなくなった当時の石柱がモニュメントになっています。
昭和10年の京都大水害で一部が流れた三条大橋。
川が深く掘り込まれたので、その分継ぎ足された石柱がよくわかります。
木製の高欄は昭和49年に台湾ヒノキで作られましたが、現在割れたりしてボロボロで付け替え工事をしています。令和6年3月までかかります。ちなみに鞍馬の木材を使うそうです。
南側は修復されきれいです。北側の修理の様子。
普段あまり気にかけていませんでしたが、高欄はこんなにボロボロだったんですね!?