造営された平安京での双ヶ丘は、都の西端のランドマークであり、周辺を含めたリゾート地が役割でした。貴族が別荘を建て、そこに天皇が行幸し遊猟されました。現在でも鹿が生息しているらしいです。平安時代初期に、双ヶ丘大臣と呼ばれた右大臣清原夏野の山荘があります。夏野が美しい花や珍しい花を植えていたので「花園」の地名になったとかで、花が咲き乱れる山荘に歴代天皇が行幸しています。夏野の死後(墓は双ヶ丘一の丘あるとされています)は寺になりますが、それが現在の法金剛院の元です。場所は丸太町通に面して、それこそJR花園駅の斜め向かいです。
清原夏野の別荘から、後に待賢門院璋子の御所になった法金剛院。
右上は法金剛院北にある待賢門院璋子花園西陵。右下は双ヶ岡一の丘にある清原夏野の墓
法金剛院には平安時代末期に歴史上重要な人物が現れます。それは待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)、ピンとこない方が多いと思います。意のままにならない3つの物(賀茂川の水、双六の賽、山法師)で有名な、白河法皇が48歳の時に養女にし、その後孫の鳥羽天皇の皇后となり、崇徳天皇・後白河天皇を出産するのですが、崇徳天皇は白河法皇のご落胤で、後の保元の乱のきっかけになったとされています。崇徳天皇は菅原道真、平将門とともに日本三怨霊の1人に数えられています。まあどちらも噂ですけどね⁉
門跡寺院というのをご存じでしょうか?皇族が住職を務める寺院のことで、京都を中心に全国にありますが、第一号が宇多天皇開基で、真言宗の仁和寺です。双ヶ丘の真北にあります。
仁和寺境内、左は山門から見た双ヶ丘、右は嵐電御室仁和寺駅から見た仁和寺山門。
山門下が京都マラソンのコースで、いつも仁和寺僧侶が並んでランナーを応援
宇多天皇大内山陵は仁和寺東側から原谷に抜けていく道の途中から600mほど山道を歩くと突然現れます。宇多天皇は、藤原家の権力を削ぐため菅原道真を登用し、退位後も後ろ盾になるのですが、仁和寺に入って法皇になってからは十分な援助が出来ず、道真の失脚を止められませんでした。
宇多天皇大内山陵。鳥居の奥は円墳のようで横から見られる
仁和寺の僧侶だったのが、鎌倉時代から南北朝時代にかけての官人で歌人である『徒然草』で有名な兼好法師です。双ヶ丘二の丘西側の小庵を終焉の地にしました。死後土砂崩れで庵がつぶされたので、東側の浄土宗長泉寺に墓石のような兼好塚が移され供養されてきました。
長泉寺墓地にある兼好法師塚、周りの墓は誰のものか分からないらしい。参拝不可
長泉寺外観、左下は本堂に安置されている兼好法師像。
右下は長泉寺斜め北にあるオムロン本社跡地の碑
長泉寺のご住職に話を伺うと、当時から現在まで自由人兼好法師のファンは多く、その方々が塚や歌碑、像を寺に奉納し、草庵の障子紙にされていたような徒然草を世に広めたそうです。徒然草は、仁和寺僧侶の暴露本的性格なので仁和寺には兼好法師の記録は全くないそうです。今は西側のオムロン本社跡に石碑があります。
双ヶ丘の東に広がる、臨済宗妙心寺派総本山の妙心寺。
第95代花園天皇が法皇になり、花園御所を禅寺にしたのが開基。
ちなみに第96代はあの後醍醐天皇。