今回は高瀬川です。
高瀬舟と一の舟入入口
高瀬川は、木屋町通二条から伏見港まで続く運河です。
浅い水深でも運航ができる底が平らの船のことを、高瀬舟と呼ばれ全国各地に就航していました。高瀬川は高瀬舟が行き交うことから名前がつきました。そしてまず思いつくのは、森鴎外の短編小説「高瀬舟」でしょう。病気に苦しんで自殺しようとしたが死にきれない弟を手伝い、死に至らしめた兄を、罪人として高瀬舟に乗せ、遠島の刑にするため大阪まで護送する同心が、道中話を聞くといった内容です。これは同心が書き残した実話で、医者である鴎外が安楽死というものを重く感じて小説にしたものです。
三条小橋から北を見る
高瀬川沿いに残る曳舟道
河原町通から東は鴨川の河原で、高瀬川はそこをなんとなく流れていたのを、先斗町の西に堤を作り高瀬川を運河として掘削して、その横の木屋町通を整備したのは豪商の角倉了以・素庵父子で、江戸初期(1611年)のことでした。二条木屋町に巨石を塀として組んだ邸宅があるのですが、ここが角倉了以元別邸です。明治に入って、山縣有朋が第二無鄰菴として所有しました。現在は、がんこ寿司高瀬川二条苑になっていて、誰でも食事ができます。
元角倉了以別邸、現がんこ寿司高瀬川二条苑
その裏に鴨川からの取水口があり、庭園を通り木屋町通を渡り、高瀬川が始まります。十条通上がる地点で鴨川に流れ込んで、鴨川を横断して東高瀬川に入り伏見港で宇治川に合流します。現在は昭和10年の水害で、鴨川の川底を2m下げたため、東高瀬川へは接続できなくなっています。当時鴨川横断の航路には杭が打ってあったそうです。伏見港で三十石船に積み替えて大阪まで下っていました。
鴨川の水を取り込む取水口
さて上流から下流へは船は流れて行きますが、登りはどうしたのでしょうか?実は船にくくった縄を何人もの曳子(船曳き人夫)が、高瀬川に設けられた曳舟道を歩いて引っ張り上げます。伏見から木屋町までですよ!橋は当時高橋だったので、下をくぐれたようです。
しかしそんな水運も対岸の琵琶湖疏水に取って代わられて、大正9年(1920年)6月に廃止されました。