總武鐵道と正岡子規
正岡子規は、俳人として多大な功績を残した人物だということは、ご存知の方も多いはず。36年という短い生涯でしたが、病に倒れる前は拠点を置いていた東京から故郷である松山への帰郷はもちろん、遠く東北へも訪れるなど、よく俳句紀行に出ていたようです。
千葉の佐倉へも2度足を運んでいます。1度目は明治24年の房総旅行の際、2度目は明治27年12月9日に總武鐵道が本所まで延伸した直後。佐倉は当時、総武鉄道の終点でした。子規はこの鉄道旅の印象を俳句にして、編集に携わっていた新聞『日本』に12月30日付けで発表しています。
子規が訪れた冬の佐倉へ、総武線に乗ってでかけてみましょう。
藁掛けて風防ぐなり冬構
霜枯の佐倉見上ぐる野道かな
これは、子規が佐倉の街に降り立った際に詠んだ句です。
佐倉は東京駅から総武線快速でおよそ1時間の距離にある城下町。子規は『日本』に、駅舎から延びる道の両側に、まだ真新しい茶店などが立っている...と街の様子を記しています。
戦国時代の中頃から佐倉に城がありましたが、城下町としての基礎ができたのは徳川家康の家老であった土井利勝の治世のことでした。慶長15(1610)年に、家康からこの地を拝領した利勝は、翌年から7年ほどの歳月をかけて佐倉城を築城。現在の佐倉の街並は、およそ400年前のこの佐倉藩の町割がベースになっているのだそうです。小高い丘の上にある城を中心に形成された街。城から一段低い場所に造られた駅舎から見ると中心街は見上げるよう。その様子が子規の句にも詠まれています。そう、佐倉は坂の街でもあるのです。観光協会で配布しているマップを開いてみると、「暗闇坂」「ひよどり坂」「猿が坂」など、ちょっと興味をそそられる名前がつけられた坂がいくつも見つかります。坂道をめぐり歩くのも、佐倉さんぽの楽しみのひとつです。
城下町、佐倉の武家屋敷を訪ねて
佐倉藩は石高が11万石ほどで、千葉最大の藩でした。城こそ残っていませんが、城跡のほど近くに往時を忍ぶ武家屋敷が3棟保存されています。
江戸時代の武家屋敷の多くは藩の所有で、藩士たちは藩から貸し与えられた屋敷に住んでいました。屋敷の大きさは藩士の身分で変わります。天保4(1833)年に佐倉藩が定めた「天保御制」によると、建坪24坪前後の「小屋敷」、建坪33坪までの「中屋敷」、建坪63坪までの「大屋敷」、建坪261坪までのさらに大きな屋敷の4つに分類され、それぞれ藩士の石高によって振り分けられていました。保存されている3棟の武家屋敷を「天保御制」に照らし合わせると、大屋敷の「旧河原家住宅」、中屋敷の「旧但馬家住宅」、小屋敷の「旧武居家住宅」に概ね分類することができます。
この3棟の武家屋敷が並ぶ鏑木小路は、主に上・中級の藩士が住むエリアだったそう。旧河原家と旧武居家の住宅は保存するにあたり当地に移築されました。
「天保御制」では、建坪だけでなく、門の造りや玄関の広さ、果ては畳の縁の有無まで(!)、細かく取り決められていました。裕福な商家や農家と比較すると武家屋敷は慎ましやかな造り。3棟の武家屋敷を順繰り見学し、その違いを比べるのもおもしろいでしょう。
この武家屋敷が並ぶ通りに最奥まで行くと、先に触れた「ひよどり坂」があります。竹林に造られた小路は竹垣もあって風情たっぷり。ざざっという葉音をたてる竹林の間から、ふいにお侍さんがでてきて...なんて、時代小説が思い浮かびそうな、そんな場所です。
静かな街並にほんのり漂う残り香のように城下町の名残をとどめる佐倉。
佐倉藩藩主堀田正睦の命で開かれた欄医学の塾兼診療所・佐倉順天堂は、安政5(1858)年に建てられた建物の一部が残っており、最後の佐倉藩主堀田正倫が明治23(1890)年に建てた邸宅も旧掘田邸として公開されています。
旧佐倉順天堂(写真右)・旧堀田邸と武家屋敷をお得に楽しめる3館共通券もあります。
城下町としての佐倉から離れても、佐倉城址の一画に延べ床面積3万5000㎡もの広さを誇る歴史の殿堂・国立歴史民俗博物館があるほか、レンブラントからマン・レイまで多彩な収蔵品が魅力のDIC川村記念美術館など、見どころは尽きません。
今度のお休みにふらり佐倉さんぽへ、でかけてみませんか?
(取材・文 川崎 久子)