日本の近代化は地方都市に豊かな彩りをもたらした、旅をするたびに痛感します。山形県は明治時代の洋風建築が多く残る地です。それは初代県令・三島通庸の功績が大きく影響しているからです。三島通庸は薩摩藩の下級武士の長男として生まれ、幕末は尊王攘夷運動に参加、戊辰戦争後は大久保利通に認められ、新政府に出仕するようになります。そして明治9年(1876)、初代山形県令となります。ちなみに、麻生太郎さんは玄孫だそうです。
三島は道路整備と公共施設の建築に尽力します。山形県庁舎を中心に山形市内は近代的に整えられていきました。当時の人はきっと驚いたことでしょう。往時の建物は明治44年の大火で多くを焼失しますが、現在残っているひとつが、「旧済生館本館」です。
中庭を囲む回廊。中庭は保養にもなり換気にも一役買ったのかな
明治11年(1878)に県立病院として建設されたのが「済生館」です。東北で最も早く西洋医学を取り入れ、医学校も併設されました。建物は当時横浜にあったイギリス海軍病院を参考にしたといわれています。正面の塔屋は三層構造、その奥に中庭を囲んで14角形の回廊があり、診察室や病室が配置されています。
裏手はこんな感じ
洒落たバルコニーのある正面から裏手に回り、回廊を巡ります。色鮮やかなステンドグラス、2階の講堂に続く変則的な階段、3階へのらせん階段……なんとも不思議な建物は、宮大工を中心に300人の職人により7か月で完成したそうです。
左:2階の講堂に続く変則的な階段 右:3階へのらせん階段
医学校の長として招聘されたのは、金沢医学校にいたオーストリア人、アルブレヒト・フォン・ローレツ医師です。当時の三島県令の3倍の給料だったとか。山形滞在は2年に満たないものでしたが、ローレツは「老烈」と名乗り、ドイツ医学をすすめ、多くの教え子を育て慕われたようです。
医学資料などを展示するかつての病室
建物は時を経て増改築が重ねられましたが、重要文化財となり、町の中心部から現在地である霞城公園内へ移築・解体復原されることになります。明治時代の設計図はなく、解体しながらの作業は非常な難工事だったといいます。必ず完成させるという昭和の宮大工の心意気で、2年5か月の歳月をかけて昭和44年(1969)に完了。現在は山形市郷土館として開館されています。明治そして昭和の職人の手による明治初期の擬洋風建築は、最高傑作のひとつと称賛されています。
山形市郷土館
https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/shisetsu/bunkasports/1008032/1005895.html